<時系列で追うパール・ジャムバイオグラフィー>
第1章
マッドハニーのメンバーらと結成した伝説のパンク・バンド、グリーン・リヴァーのメンバーだったジェフ・アメン(b)、ストーン・ゴッサード(g)を中心に、パール・ジャムの原型と言われる“マザー・ラヴ・ボーン”を結成。このバンドを巡って壮絶なレコード会社の争奪戦が行われるが、デビュー直前にボーカリストがオーヴァードースで急死。残ったジェフとストーンがサン・ディエゴ出身のエディ・ヴェダーをヴォーカルに迎えるなどして結成されたのがパール・ジャムである。'91年にでデビュー。このアルバムからの3弾シングル「ジェレミー (Jeremy)」のラジオ/MTV両方における猛烈なオン・エアーと、当時もの凄い勢いで話題となっていた彼らのクラブ・ツアーでバンドは一気に大ブレイク。同時期に“Nevermind”を発売してブレイクしていたNirvanaと文字通り人気を2分していた彼らは瞬く間に『Ten』をミリオン・セラーに押し上げた。尚、発売から1年後にビルボード2位を記録したこのデビュー・アルバムは現在1200万枚を越えるセールスを記録し「ダイアモンド・アルバム」の認定を受けている。
第2章
'93年2ndアルバムをリリース。このアルバムは全米アルバムチャート初登場1位を記録し、発売一週間で95万枚を売り上げギネス・ブックを書き替えた。そしてこの頃に、全音楽シーンを震撼させ、パール・ジャムのその後の方向性にも大きな影響を及ぼすこととなった事件が起こる。シアトルのバンドとして互いに人気を二分し、良きライバルであったCurt Cobainの死だ。この出来事をきっかけに、自らに課せられた周囲の期待とプレッシャーに悩んだエディーはメディアから遠ざかるようになったと言われる。
第3章
94年に3rdアルバムをリリース。まるで本のような装丁のこのアルバムはCDに先行してビニール盤のLPレコードが発売され、レコードのアルバムのみで全米アルバム・チャートにランク・イン(55位)されるという快挙を達成。CD自体もアルバムチャート5週連続1位という快挙を成し遂げ、500万枚のセールスを記録。New Yorkのタワーレコードではなんと一秒に一枚の速度でアルバムが売れていったという逸話も生まれた。しかしチケットマスターとの闘争事件など、ツアーに関する問題が山積するなどし、しばらくライブ・ツアーも行なわない時期が続く。調度その頃、ライヴを通じて彼らが徐々に交流を深めていったのがニール・ヤング。95年には、パール・ジャムとニール・ヤングのコラボレーション・アルバム”Mirror Ball”を発表。バック・バンドはパール・ジャム、ボーカルはニール・ヤングという構成で、1ヶ月にも及ぶヨーロッパツアーを行った。
第4章
96年に4thアルバム『No Code(ノー・コード)』をリリース(全米アルバムチャート初登場1位/100万枚のセールスを記録)。久々にパール・ジャムとしてのツアーを開始して、再びファンとの接点を見いだしたバンドは毎日セット・リストを変え、一日30曲近く演奏するという彼ら本来の姿を取り戻し始める。
第5章
'98年、5thアルバム『Yield(イールド)』(全米アルバムチャート初登場2位/100万枚のアルバムセールスを記録)をリリース。その後は同年本当に久しぶりのプロモーション・クリップ「Do The Evolution(ドゥ−・ジ・エヴォリューション−アニメーションによるビデオで、映画“スポーン”を制作したクリエイターが製作)」を作った後、初のヴィデオ・クリップ集「シングル・ヴィデオ・セオリー」、更に初のライヴ・アルバムをリリース。そして99年の夏、パールジャムは再び業界を揺るがす事件を巻き起こす。もともとファンクラブ向けのみに発売された7インチシングル“Last Kiss”(64年に発表されたJ.Frank Wilson and the Cavaliersのカバー曲)が、どこからともなく全国のラジオ局のDJの手に渡っていった結果、ビルボード・ホット100シングルチャート2位を記録するまでの大ヒットとなる。このシングルは後にコマーシャルリリースされ、ゴールド・セールスを記録した。
第6章
2000年に6枚目のスタジオ・アルバムをリリース。チケットマスター騒動もようやく落ち着いてきたこの頃、彼らを再びショッキングな出来事が襲う。“ロスキルデ事件”である。スウェーデンを代表するこの大型フェスティバルで、興奮したファンのうち9名がバンドの演奏中に圧死するという痛ましい事故がおこってしまう。エディーを始め、激しい精神的ダメージを受けたバンドには崩壊の危機が訪れるが、彼らにとっての唯一のファンとのコミュニケーション方法であるライブ・コンサートを止めることはせず、世界ツアーを続行。「この夏最も期待されている全米ツアー(Rolling Stone誌調査)」に突入し、公演全てを録音、無修正で発売するという前代未聞の展開方法でさらに強いファンベースを確立してゆく。2000年には音楽史上初となった25公演分/25枚のライヴ盤一挙発売、2001年には7枚のライヴ・アルバムを全てビルボードHot 200チャートに送り込み、同チャートに同時に最も多くアルバムをチャート・インさせたアーティストとして記録を塗り替えた。“ライヴ・アクト”としての、その圧倒的な人気はこの頃までに正に不動のものとなり、彼ら最初のライヴDVD“Touring Band 2000” はプラチナ・セールスを記録している。
第7章
2002年、7枚目のスタジオ・アルバム「RIOT ACT(ライオット・アクト)」をリリース。その後、ライヴ音源をライヴ後24時間でサイトにUPするなど、様々な実験的試みを繰り返す。
第8章
05年EPIC RECORDSとの契約を終了し、J-RECORDSと新たに契約。05年には8作目のリリースが噂されたが、この年の夏には全米ツアーや、南米ツアーなど大規模なツアーを行い、アルバム発売は06年に。バンド結成15周年を迎える06年に、通算8作目となる待望の新作をリリースする。
<ディスコグラフィー>
オリジナル・スタジオ・アルバム
1991 10 25 “TEN/テン”
1993 10 14 “VS/ヴァ−サス”
1994 12 08 “Vitalogy/バイタロジー(生命学)”
1996 08 28 “No Code/ノー・コード”
1998 01 28 “Yield/イールド”
2000 05 17 “Binoral/バイノーラル”
2002 11 13 “Riot Act/ライオット・アクト”
2006 05 24 “Pearl Jam/パール・ジャム”